照兜魚

■照兜魚[てるとうお]

▽解説

 明治時代に日本を訪れたイギリス人リチャード・ゴードン・スミスが記録した怪談に登場するものです。
 荒俣宏編訳『ゴードン・スミスの日本怪談集』(2001年)所収「出雲の大山」の記述に基づいて内容を紹介します。

 
 物語は正保三年(1646)から始まります。
 出雲国松江に、大谷甚内という心優しい男が妻のおりょうと暮らしていました。二人の間には何年たっても子ができなかったため、様々な神仏に祈りを捧げていました。
 五月、出雲の大山(だいせん。文中では「おやま」)にある大神山神社が子授けに霊験あらたかだと聞くと、二人はさっそく大山に登りました。
 参詣をすませた帰りの山道、不意に周囲に濃霧が立ちこめたかと思うと、どこからともなく美しい娘が現れました。娘は霧で立ち往生していた甚内に道を教え、夫婦が子宝の祈願のため登山してきたのだと知ると、水の入った瓶を差し出しました。
 瓶の水は赤松池の周りの草から露を集め、元旦に大神山神社へ供えた聖水で、これを飲めばきっと子宝に恵まれると娘は語りました。その場で水を飲んだおりょうはたちまち酒が回ったようになり、確かに子が授かる予感を覚えました。
 気づいた時にはかの娘の姿は見当たらず、夫婦は下山し帰路につきました。

 聖水の効果か、翌年おりょうは女の子を出産しました。
 千代子(お千代)と名付けられた子は美しく聡明な娘に成長し、十六になった年には甚内の甥にあたる玉置という青年との縁談が持ち上がりました。
 玉置はこの縁談に乗り気でしたが、お千代の方は相手に好意を持てず、かといって無下に断って親の願いに背くこともできずに苦悩していました。
 本心を親に打ち明けられないまま結納が済み、あとは祝言の日取りを決めるだけという頃になって、お千代はある頼みごとを口にしました。
 それは祝言の前に大神山神社へ詣でて、神様に結婚の報告をしたいというものでした。これには親も賛成し、お千代は乳母のおすまとともに大山へ赴くことになりました。

 上等の着物に身を包んで家を出たお千代は、おすまと共に大山頂上の神社で感謝の祈りを捧げました。
 そして帰り道、かつて両親が不思議な娘と出会った赤松池のほとりに至りました。
 お千代は湖面を見つめた後、波打ち際に歩み寄って身を屈めました。すると湖面から蒸気が立ち上りました。思い詰めた様子のお千代は、急におすまへ感謝と別れの言葉を告げました。
 うろたえるおすまに向けてお千代は言います。
 「わたしは人間としてこの世に生まれましたが、これは仮の姿なのです。わたしは、この地方に棲む鯉です。ほんとうの故郷はこの池なのです」
 続けて、お千代は両親への感謝の言葉と文をおすまに託すと、池に飛び込んで姿を消してしまいました。
 「どうかもう一度お姿を」とおすまが叫ぶと、金色に輝く巨大な鯉が水しぶきを上げて姿を現しました。おすまに向けられた鯉の顔は、まぎれもなくお千代のものでした。おすまは思わずひざまずき、鯉に向かって手を合わせました。

 戻ってきたおすまから事情を聞いた甚内とおりょうは悲しみに沈みました。
 おすまが持ち帰った文には、お千代から両親への感謝や、自分は照兜魚という鯉であるため人間との結婚が叶わないことなどが書かれていました。そして、もし会いたくなったときには赤松池のほとりで名を呼んでほしいとも記されていました。
 赤松池の神聖なる鯉・照兜魚の話は甚内も聞いた覚えのあることでした。大山の神が鯉の化身を子として授けてくれたのだと悟った甚内は、神社を建立してそこにお千代の文を奉納しました。
 数日後、甚内夫婦や縁者たちは赤松池に出かけました。池のほとりで甚内が「照兜魚!」と三度呼びかけたところ、それに呼応するかのように水底で轟音が発せられましたが、お千代が姿を現すことはついになかったといいます。
 縁談の相手を失った玉置は甚内の養子に迎えられ、後の人生を神道に捧げたといいます。

 この出来事以来、照兜魚の名を三度呼ぶことがこの池を訪れる人々の習慣となりました。甚内が建立した照兜魚の神社には、縁結びの御利益を求めて若い男女が数多く訪れるようになったといいます。
 また、大山の周辺では鯉を「照兜魚さん」と呼ぶようになり、高貴な身分の人や聖職者もこの名で総称されたといいます。
 

 リチャード・ゴードン・スミスは日本人の絵師を雇って自身が集めた話の絵を描かせており、この話にも池から現れる女神や人面の照兜魚の図を添えています。


▽関連

人魚


 
 話の流れからして結婚がイヤだから鯉に戻っちゃったようにも思えますね……当人の意思確認は大事デスネ。