人魚

■人魚[にんぎょ]

▽解説

 海や河川など水中に棲むと考えられた存在で、半人半魚、また人面魚身の生き物として広く知られています。同様の外見をもつ怪物は世界中に伝承されており、今日ではこれらに対しても総称として人魚の名が用いられています。
 
 『日本書紀』には、推古天皇二十七年(619)に近江国蒲生川に人のような生き物が出た、また摂津国の漁師が魚でも人でもない名の知れぬものを捕ったとあり、これが日本の文献上における最古の人魚といわれています。
 『古今著聞集』には伊勢国別保にて漁師の網に人のような頭の魚がかかったとあります。
 これは人が近寄ると声を発し、涙を流す様子も人と同じだったといいます。浦人たちがこの魚の身を切り取って食べたところ、その味は非常によく、食べた後も特に何事も起こらなかったといいます。人魚というのはこのようなものだろう、と記されています。
 この他、各種文献に人魚の出現、漂着、捕獲等の記録がみられます。珍しいものとして時の権力者に捧げられることもあったらしく、たとえば『江原武鑑』には天文十二年に豊後大野郡で獲れた人魚が将軍家へ献上されたことが記されています。

 仏教説話、寺院の縁起譚にも人魚は登場します。
 聖徳太子開山と伝わる近江の観音正寺は、前世において漁師として殺生を行っていた者が醜い人魚に生まれ変わり、その成仏の願いを受けて太子が建立した寺といわれています。
 人魚の肉を食して長命を得た「八百比丘尼」の話も現在までよく知られている人魚の伝説のひとつです。

 人魚の出現は吉兆、凶兆のどちらとも捉えられましたが、文献ないし伝承上では凶兆とする例の方が豊富にみられるようです。
 『北条五代記』には建保元年(1213)に秋田の浦へ人魚が流れ着いたとあり、このことを占うと兵革の兆しであるとの結果が出たため、鎌倉では祈祷が行われたといいます。御家人和田義盛が反乱を起こしたのもこの年のことといいます。
 宝治元年には津軽で人魚が見つかり、鎌倉八幡宮で祈祷が執り行われましたが、このときは三浦泰村が乱を起こしました。
 人魚は津波や暴風雨の前兆とされることもあります。『諸国里人談』には、寛永の頃に若狭国大飯郡の漁師が人魚を打ち殺してしまい、そのために暴風雨と大地震が起こって村が崩壊してしまったという話があります。この人魚は御浅明神の使者とされています。
 吉兆とされた例には福岡の龍宮寺の縁起に登場する人魚などが挙げられます。
 貞応元年(1222)に博多の浜に打ち上げられた人魚は占いにより国家長久の兆しとされました。また、この人魚は龍宮の使いであるとされ、これを葬った浮御堂が龍宮寺と名を改められました。


 近世以降は西洋の知識の影響もあり、上半身が美しい女性の姿をした人魚の図像が人口に膾炙していきました。
 幕末から明治頃には魚と猿などの死体をつなぎ合わせた人魚の見世物も横行し、その宣伝文句として、食すれば長寿となる、見れば疫病除けになるといった御利益が強調されることもありました。
 人魚の標本、ミイラの類は日本の土産物として海外にも数多く輸出されました。新聞報道などから当時の様子がうかがえるほか、国内外に現物が今も残されています。
 

▽関連

海人
八百比丘尼




 なんかもうとっ散らかった記事なので適当に読み飛ばしてください。人魚の活躍範囲と時代は広大なので一記事ではまとめられないんですよね! こういうこと有名な妖怪が出てくるたびに言ってますけどね。