女の鬼

■女の鬼[おんな‐おに]

▽解説

 兼好『徒然草』第五十段には、京都に流布した鬼の噂のことが記されています。


 応長(1311~1312)の頃、伊勢国から鬼になった女(「女の鬼になりたる」)が京へ連れてこられたという風聞が広まり、それから二十日ほど経つと京白川の人々が「鬼を見に行く」と言ってむやみに出歩くようになりました。
 「昨日は西園寺に行ったそうだ」「今日は院(上皇の御所)へ向かうだろう」「ちょうど今はどこそこにいるらしい」などと盛んに噂されましたが、本当に鬼を見たという人はなく、さりとて鬼の話は嘘だと断言する人もありません。ただ、人々は身分の上下にかかわらず、頻りに鬼の話ばかりをしていました。

 その頃、筆者が東山から安居院の近くへ出かけたところ、四条通りから上の住民たちが「一条室町に鬼がいる」と騒ぎながら北へ走るのに出くわしました。
 今出川の辺りから見渡してみると、賀茂祭見物のための院の桟敷あたりは隙間がないほどの人の賑わいで、何やら騒がしい様子。鬼の噂は事実無根でもないのだろうかと思って人をやってみたものの、やはり実際に鬼に会ったと語る者は一人もいません。しかし騒ぎは日暮れまで続き、果ては喧嘩まで起こる始末だったといいます。

 当時、罹ると二、三日患う病が広く流行しており、かの鬼の虚言はこの前兆だったと語る人もいました。


 上記のように兼好が記している通り、「田楽病」「三日病」と呼ばれる風咳のような病が当時流行し、それを理由に元号が延慶から応長に改められています。
 岩波文庫版『徒然草』(西尾実、安良岡康作校注)の注釈では、田楽興行に京の人々が熱狂しているさなかに鬼の流言が混入し、騒ぎが大きくなったのだろうと推測されています。
 

▽註

・『徒然草』…吉田兼好の随筆。鎌倉時代末期成立。見聞、随想などを徒然に書き記した全二四四段。近世以降にも教訓書として広く読まれた。

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