九色鹿

■九色鹿[くしきろく]

▽解説

 日本に伝わってきた仏教説話のひとつで、釈迦の前世の物語(ジャータカ)とされるものに登場する鹿です。
 『仏説九色鹿経』『六度集経』などの経典に記され、敦煌の壁画にもこの説話を描いたものがあるほか、日本では『今昔物語集』『宇治拾遺物語』などで取り上げられていることがよく知られています。
 毛の色は九色のほか金色とされている場合もあり、『宇治拾遺物語』や『怪談記野狐名玉』の類話では五色、「奇しき色の大鹿」や「五匹の鹿」として日本の民話となっている例も確認されています。


 以下に『今昔物語集』巻五「身の色九色の鹿、山に住み川の辺りに出でて人を助けたる語」に基づいて内容を紹介します。

 昔、天竺にとある山があり、身の色は九色で白い角をもつ鹿が人知れず暮らしていました。山の麓には川があり、そこには一羽の烏がいて、鹿と心を通わせながら長年過ごしていました。
 あるとき、人間の男がこの川で溺れて流され、瀕死の状態となって水面を浮き沈みしていました。
 「山神、樹神、諸天、竜神よ、どうして私をお助けくださらないのですか」
 木の枝に縋りついて叫ぶ男の声を聞き、九色の鹿が川のほとりに現れて言いました。
 「恐れることはない。私の背に乗って角につかまりなさい。私があなたを背負って陸まで行こう」
 助けられた男は涙を流して鹿に感謝し、どのように恩返しをすればよいだろうかと問いかけました。鹿はただ己がこの山に住まうことを誰にも語らないでほしいとだけ頼みました。
 「私の身の色は九色で、世にまたとないものだ。そして角は雪のごとく白い。私のことが人に知られたならば、毛皮と角を用いるために必ず殺されるだろう。これを恐るるがゆえに深山に隠れて棲む所を敢えて人に知らせないのだ。しかしあなたの叫び声を聞いて哀れでならず、こうして助けたのだ」
 男はこれを聞いてまた涙を流し、鹿との約束を守ると誓って山を去りました。

 あるとき、この国の后が夢の中で身の色九色で雪のような角を生やした鹿に出会いました。后は夢で見た鹿の虜となり、その毛皮と角が欲しいあまりに病みついて臥せるようになってしまいました。そして必ずこのような鹿が現実にいるはずだから捕えてほしいと国王に懇願し、王はもしこのような鹿を捕えてきた者があれば金銀財宝を与えるとの宣旨を下しました。
 里に帰った男は山での出来事を誰にも語らず過ごしていましたが、このことを知ると貪欲の心に抗えず、恩を忘れて鹿の居所を国王に奏上しました。
 国王は喜び、すぐに数多の兵を率い、男を案内役としてかの山へ赴きました。
 
 この様子を見ていた烏は、洞穴で寝入っていた鹿のもとへ飛んでいき、大声で騒いで警告を発しました。
 「国の大王は珍しい鹿の毛皮がご入用で、軍勢を率いてこの谷を取り囲んでいますぞ。たとえ今は逃げおおせても、いずれ命を長らえる術はございません」
 鹿が驚いて様子を見に出た時にはもう遅く、国王と軍勢は目前に迫り、もはや逃げる道はなくなっていました。
 そこで鹿は大王の御輿に歩み寄っていきました。矢を射んと構える兵士たちをも恐れず近づいてくる鹿に心動かされた国王は、兵の動きを制して、その動向を見守りました。
 鹿は御輿の前にきてひざまずくと、こう語りました。
 「私は己の毛色を恐れて、年ごろ深い山に隠れていました。居所を知る人もないはずなのに、大王はいかにして私の棲み処をお知りになったのですか」
 王が男の案内を受けてここへ来たと答えると、鹿は傍らに控えていた例の男を見やりました。その顔には約束を違えた報いなのか、痣が生じていました。

 「あなたの命を助けた時、その恩を喜び、人に告げてほしくない理由を話して固く約束したはず。それなのに恩を忘れ、いま大王に告げて私を殺そうとするのはいかなるお心ですか。水に溺れて死のうとしていた時、私は命を顧みず泳ぎ出て、あなたを陸へ引き上げました。それなのにこうして恩を知らぬ行いをなすとは、限りなく恨めしいものです」
 そう語りながら鹿は涙を流していました。男は鹿の問いかけに何一つ答えることができません。
 この様子を見ていた大王は、今日より後に国内の鹿を殺すことを禁じ、背いたものは死刑にして家を断絶させると宣旨を出し、兵士を引き上げ宮殿へと帰っていきました。
 死を免れた九色の鹿は喜んで帰り、その後この国は適度な雨に恵まれ、荒い風は吹かず、疫病も流行らなくなり、五穀豊穣にして貧しい人はいなくなったといいます。

 恩を忘れるは人のうちにあり、人を助けるは獣のうちにあり。このようなことは今も昔もあることだ、とこの物語は結ばれています。
 また、この九色鹿は後の世の釈迦で、烏は後の阿難、后は孫陀利、溺れた男は提婆達多であるとされています。
 『九色鹿経』では上記の他に、真相を知った王が男を叱責する場面や、最後に去りゆく九色鹿のもとへ数千の鹿が集まり来て付き従う場面が見られます。


▽註

・『今昔物語集』…平安時代後期成立、作者未詳の説話集。全31巻。天竺、震旦、本朝の3部からなり、1000以上の説話を収める。
・『宇治拾遺物語』…説話物語集。作者不明。13世紀頃の成立。

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