赤気

■赤気[せっき]

▽解説

 赤気または紅気とは赤色の雲気や彗星をさす言葉で、和漢の歴史書などにその出現が記録されているものです。その異様な光景からか戦乱や災害の予兆とみなされることがありました。
 

 『日本書紀』には推古天皇二十八年(620)の十二月、天に赤気があらわれたことが記されています。これは長さが一丈あまり、形は雉の尾のようだったとあります。

 藤原定家が記した『明月記』には、建仁四年(1204)一月、夜空に赤気が複数回にわたって出たことが書き留められています。
 それによれば、まず正月十九日の夜に北及び艮(東北)の方角に赤気が出たといいます。赤気は遠方の火事の光のようで、ところどころには白い光の筋が伸びていたといいます。雲ではなく、また雲間に見える星宿(星座)などでもなく、赤白の光が入り混じる様子は実に不可思議で気味の悪いものに映ったらしく、定家は「奇にしてなお奇とすべし、恐るべし、恐るべし」と述べています。
 仁和寺の『御室相承記』にもこの赤気に関する記述があり、同月二十一日から二十三日まで立て続けに赤気が見えたために高野山参詣が取りやめになったといいます。
 これらは当時観測された低緯度オーロラの記録と考えられています。


 江戸時代の明和七年(1770)七月にも日本各地で赤気(オーロラ)が目撃され、その時の様子が多数の書物に記録されています。
 随筆『折々草』には以下のようにあります。
 七月の末の八日(二十八日)。その日は暑く、建部綾足(作者)と友人たちは京の東山にて涼をとっていました。戌の刻頃から空が赤くなり、人々は北方の山に火が着いて燃えているのだと騒ぎはじめました。見れば、確かに北の空が真赤に染まっており、林が燃え上がっているかのようでした。しかし鞍馬山かと思えば少し遠く、若狭路の山だとすれば近すぎるようで、その位置は判然としません。
 やがて光の筋がいくつも立ち上り、天末がたなびくように見え始めたのを機に、これは火事ではなく天の気だという話になり、この先いったいどうなってしまうのかと人々は不安に駆られました。
 このような現象は古い書物にも見え、古来例のないことではないながら、やはり珍しいことではあったために都の人々は殊更に騒ぎたてたといいます。
 赤気は東の空に上がっていき、次第に薄くなって深夜には消えていったといいます。若狭や大和の者に聞いたところ、そちらでも同じ頃に天が赤く染まっていたとのことでした。松前や長崎でも赤気が見えたといいます。
 また大和では都が焼け落ちたとか、ひときわ赤く立ち上る光は盧舎那仏の堂が炎上しているものだとの噂が流れて大混乱が生じていたといいます。
 この他、火の雨が降って生きている者はみな亡ぶ恐ろしい時が来るので、土の室(むろ)に隠れると良いといった流言も飛び交ったようです。
 ところが赤気は他に何事も齎さなかったため、このような騒ぎも次第におさまっていったといいます。
 加賀の人が語った目撃談は少し様子が異なっており、黒雲の一群が海上にたなびく中に赤い光がほのぼのと見えたといいます。鳴神(雷)でもなければ夕日の影とも見えず、やがて夜を迎えると赤い光が南北一面に満ちたのだといいます。このような現象の先例についてとかくの評判がありましたが、ある古老によれば、同じようなことがあった年は稲がよく育って国中が豊作となったので、これはきっとよい兆しであろうとのことでした。

 尾張の猿猴庵による『猿猴庵随観図絵』にもこの出来事が図入りで記録されています。
 やはり当初は火事と勘違いされ、後には異変を恐れた人々が祠に集まり神楽を奉納したり、念仏を唱えて過ごしたといいます。また火の雨が降りはしないかと心配して屋根に水を撒く人も出たといいます。この他、高所に登ってみると物が煮えるような音が聞こえたともあります。
 太田南畝『半日閑話』にも明和の赤気の話題があり、公に天文家へのお尋ねがあったこと、京都では七日間の潔斎が行われたことが記されています。
 同年の日本が旱魃に見舞われていたことも相俟って、これら赤気出現を凶兆とみる意見が多く出ていた一方、秀尹『星解』のように吉凶を判断するに及ばない天文現象の一種とする見解もありました。なお、秀尹は赤気(紅気)を「雨気之所為」と考えていたようです。

 更に後世の例では、幕末から明治にかけての鹿島神宮宮司・鹿島則孝の随筆『桜斎随筆』において、明治元年(1868)にみられた赤気について、奥羽や北海道で戦が起こる凶兆だろうとするものなどがあるようです。


 柴田宵曲は奇談異聞を収集分類した『妖異博物館』正編最後の項に「赤気」を置き、『折々草』『想山著聞奇集』『一話一言』『甲子夜話』『北窓瑣談』にあるオーロラと推定される赤気事例を紹介しています。
 宵曲はこれらに続けて『東遊記』の「名立崩れ」にみえる現象も赤気の一例として紹介しています。
 名立崩れは宝暦元年(1751)に越後頸城郡名立小泊村で発生した災害で、地震による地滑りで一瞬のうちに山が崩れて海に没したといわれているものです。
 この際、漁に出ていた者がふと船上から名立を見やると、空一面が火事のように赤く染まっていたといいます。家が燃えては一大事と慌てて引き返してみたものの、帰ってみれば陸は平穏、火事を出したという話もありません。怪しみながらもまずはめでたいと一同安心しましたが、果たしてその夜半、鉄砲を撃つような音が聞こえたかと思うと、山が真っ二つに割れて、ただ一人の女を残して老若男女牛馬鶏犬すべてが海に没したといいます。
 海から戻っていなければ漁師たちは生き残っていたものを、皆が集まってから山が崩れたのはいかなる因果か。哀れなことである、とこの事は語り継がれました。
 著者の橘南谿は大地震の前兆として「赤き気」が立ち上り、遠方からは火事のように見えることがあると聞いたとして、名立崩れの例や松前の津波の前に仏神が飛行したことなどもこの類であろうかと考察しています。