やまくじら

■山鯨[やまくじら]

▽解説

 肉食禁忌の意識がまだ根強かった江戸時代後期、獣肉を売り、あるいは食べさせる店(ももんじ屋)では猪のことを「山鯨」という隠語で呼びつつ、公然と客に提供していました。猪肉が鯨肉に似ていたため、また鯨の一種すなわち魚の肉であるというこじつけの建前の意味がこめられていたようです。
 
 この語から連想して、寛政十一年(1799)に出た鯨を題材とした黄表紙『鯨魚尺品革羽織』(曲亭馬琴作)の冒頭では、鯨の一種(もちろん洒落)として「山くじら」が紹介されています。
 萩の中に臥す猪(富寿亥)という吉祥の構図で描かれた「やまくじら」ですが、一応魚であるためか眠らず目を開けています。口ばし長く牙は鋭く、「ふすいのとこ(臥猪の床)の海」に遊ぶといいます。また体長は十六間あると記されており、これは「猪」つまり「しし」で四四 十六という洒落になっています。
 この他、「仁田の四郎」がこれを銛で突いたとか、「早の勘平」が突き損なった帰りに金魚五十両を得たことがあるなどと記されています。これらはいずれも芝居などを通して知られていた猪にまつわる逸話を取り入れたもので、前者は『曽我物語』において、富士の巻狩りで仁田忠常が源頼朝に襲いかかる大猪を仕留めた話、後者は『仮名手本忠臣蔵』の早野勘平が猪と間違えて斧定九郎を撃ち殺し、その懐にあった金子五十両を得た場面を示しています。
 
 この他、かつて鯨は山で暮らしていたのが海に移り住んだという文字通りの「山の鯨」が登場する昔話が九州地方などに伝わっています。
 福島県の猪苗代町では明治二十一年(1888)の会津磐梯山の噴火とそれに伴う気候の変化や震動が暴れ狂う山鯨(大猪)の仕業に擬えられ、山神の怒りを鎮めるべく大猪の山車を造って祈願しました。このおかげか平穏が戻ったため、以後村人は山くじらを神獣として崇め、年に一度山の神への感謝と豊作を祈る祭りを行ったといいます。