猪の怨霊

■猪の怨霊[いのしし‐おんりょう]

▽解説

 宮負定雄『奇談雑史』には、熊野本宮大社の神官である竹内太夫が語ったという「猪の怨霊の事」なる話があります。

 文化(1804~1818)年間のことです。
 奥州某所にひとりの狩人がいました。彼は猪や鹿を獲物として、山中に造った小屋で夜を過ごすこともありました。
 ある夜、小屋に怪しい小僧が訪ねてきました。「何か食物を与えよ」と求めてくる様子を見て、狩人は「この小僧は人間ではない」と感じて恐ろしくなり、飯櫃を差し出しました。
 小僧は櫃の中の飯を残らず食い尽くすと、「他にも何かあるなら食おう」と言いだしました。
 「ここは山小屋だから他に食い物は何一つない。ただ猪の生皮一枚があるだけだ」と応じると、小僧は「その猪の皮を食おう」と言って、皮をも食い尽くしてしまいました。
 そしてまた「まだ他に何かあれば食おう」と繰り返すので、狩人は「この他にはもう何もない」と答えました。
 すると、小僧はこう言いました。
 「俺はお前の手にかかって打ち殺された千疋猪の怨霊だ。他に食うものがないのならお前を食い殺してやろう」
 恐ろしい顔つきになって睨みつける小僧におののいた狩人は、こう命乞いをします。
 「私は山家に生まれ、他になす仕事もなく狩人となったのです。これまで多くの猪や鹿を殺したがために罪を逃れる術はありません。私の命をさしあげましょう。しかしながら、私は一度だけ里に帰りたいのです。親と子に暇乞いをしてからまた戻ります。その時にはどうぞ命をお取りください。どうかその時まで三日の間お待ちください」
 「さらば望みに任せよう。もし契りを違えて再びここに来なければ、俺がお前の家に行って食い殺してやる」
 そう言って狩人の頼みを聞き入れると、小僧の姿は消え失せました。

 狩人は夜明けを待たずに家に帰ると、親と妻子、さらには他の身寄りや里の人々にも小屋での出来事を語りました。
 人々は村長の家に集まり、どうすればこの禍を除くことができるだろうかと協議しましたが、なかなか良案は出ず難渋していました。
 やがて、札を配るために当地を訪れ、村長の家に滞在していた竹内太夫が狩人のために祈祷を行うことになりました。

 三日後の約束の夜、神官は狩人をひとり家にこもらせ、閉めきった窓や戸口には熊野の御祓守を貼りつけて怨霊の到来を待ちました。
 やがて丑の時を迎えると、家の周りには荒れ狂う猪が数多現れました。猪の群れは時に戸や窓にかじりつきながら家の周囲を巡っていましたが、中に入ることはできず、さも悔しげに歯噛みをして去っていきました。
 家には猪の噛み跡が残されましたが、狩人は生きて朝を迎えることができました。
 彼はそれきり狩人を辞めたといいます。

 
▽註

・『奇談雑史』…奇談集。平田篤胤の門人・宮負定雄の著。文久二年(1862)成立。全十巻に160話を収録。



 
 前半の小僧とのやり取り、後半の籠城戦、どちらもスリルあるお話です。
 本文の描写からすると狩人が一度だけ家に帰りたいと言ったのは本当に命を諦めたからのようなのですが、周囲の人々に守られる結果になったのですね~。