赤猪

■赤猪[あかい]

▽解説

 赤い猪にまつわる伝説は『古事記』にある大国主命の話がよく知られています。
 
 因幡の八上比売(やがみひめ)を娶った大国主(大穴牟遅)は、同時に求婚していた大勢の兄たち(八十神)から激しい嫉妬を向けられることとなりました。
 伯耆国手間山本に呼び出された大国主は、八十神から「この山には赤い猪がいる。今から我々がその猪を山上から追い落とすから、お前は下で猪を捕まえろ。もし取り逃がしたらお前を殺してしまうぞ」と言いつけられ、猪が駆け下りてくるのを待つこととなりました。
 やがて山の上からは兄たちが焼いて真っ赤になった大石が転がり落ちてきました。大国主はこれを赤猪と信じて飛びかかりましたが、そのために全身の皮膚が石に焼きついて離れられなくなり、押し潰されて絶命してしまいました。
 母神である刺国若比売は大国主の死を嘆き悲しみ、高天原に上って神産巣日之命に助けを求めました。神産巣日は𧏛貝比売(きさがいひめ、赤貝の神)、蛤貝比売(うむぎひめ、蛤の神)を遣わして、岩に貼りついた大国主を助け、薬を塗って元の麗しい姿にして蘇生させました。

 鳥取県西伯郡南部町にある赤猪岩神社には、このとき大国主が抱いたとされる岩が祀られています。


 上の説話に出てくるのは赤猪に見せかけた岩だけですが、『日本書紀』には本物の赤い猪が現れた話もあります。
 第十四代天皇・仲哀天皇の崩御後、皇子である麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ、忍熊王)は異母弟にあたる誉田別尊(後の応神天皇)が皇位を継承することを恐れ、天皇陵造営を装って播磨国赤石(明石)に赴き、挙兵の準備を秘かに進めていました。
 そして二人は摂津国菟餓野に出て、策謀の結果を占う祈狩(うけいがり。狩猟により神意を伺う占い)を行いました。
 事が成就するならば必ずよい獣が獲れるだろうと考えていたところ、赤い猪が突然現れて二人の座す桟敷に駆け上がり、たちまち麛坂皇子を食い殺してしまいました。
 その場にいた者たちはみな怖気づき、忍熊皇子もこの怪事を受けて「ここで敵を待つのはよくない」と悟り、軍を率いて退却しました。
 なお、『古事記』にも同様の記述がありますが、こちらでは「大怒猪」とだけあって猪の色については語られていません。
 江戸時代の随筆『嚶々筆語』は、この赤猪について「赤猪とは、毛色の火の如く赤きにて、所謂神獣なり」と説明しています。


 また、福島県いわき市赤井の閼伽井嶽にはかつて猪が数多く棲み、その中にひときわ大きな赤い猪がいて、付近の田畑を荒らしまわっていたと伝わっています。
 困り果てた人々がこのことを朝廷に伝えると、岩城国造・建許呂命と猪狩の猟師たちが赤猪退治のため派遣されてきました。
 山王山に登った国造が最初の矢を放つと、それは赤猪の脇腹に突き刺さりました。赤猪が北へ向かって逃げだしたので、二の矢を射かけてとどめを刺しました。
 このようなことがあり、山は赤猪嶽すなわち閼伽井嶽と呼ばれるようになり、二の矢を放った場所は二箭山(ふたつややま)、鼻を捨てた場所は猪鼻(いのはな)という地名になったのだといいます。
 いわき市小川町にある二屋神社は、この時の矢を祀ったのが始まりであるといわれています。



▽註

・『日本書紀』…奈良時代成立、日本最古の正史。神代から神武天皇、第41代持統天皇までの歴史が編年体で記述されている。
・『古事記』…奈良時代成立、日本最古の歴史書。天武天皇の命で稗田阿礼が誦習した帝紀や先代旧辞を、元明天皇の命で太安万侶が筆録して和銅5年(712)に献進。
・『嚶々筆語』…大国(野々口)隆正らの著。天保13年(1842)刊。隆正の国学など執筆者の専攻する分野の考説がまとめられている。