伏姫神

■伏姫神[ふせひめがみ]

▽解説

  伏姫神とは、曲亭馬琴作『南総里見八犬伝』の登場人物・伏姫が死後に神霊として姿を現したときの呼び名です。

 安房里見家当主・里見義実の愛犬・八房は主が戯れに放った言葉を真に受けて敵将安西景連を討ち取り、恩賞として義実の娘である伏姫を妻として山中の洞窟へ連れていきました。
 八房が里見の娘を欲したのは、かつて義実らを怨んで死んでいった悪妾・玉梓の怨念が取り憑いていたためでしたが、伏姫の一年に及ぶ法華経読誦によってそれも解脱し、菩提心を起こして入水を決意しました。しかしそれより前に八房は銃弾を受けて絶命、犬の子を宿したと疑われた伏姫は、自ら腹を裂いて潔白を証明して死にました。
 割腹した伏姫から発せられた気は、姫が持つ数珠の大玉に宿って仁義八行の霊玉となし、以後各所に飛散した霊玉に導かれて八人の「犬士」が集結、里美家のために活躍することになるのでした。

 こうして死を遂げた伏姫と八房ですが、その霊魂はたびたび八犬士や彼らに縁ある人々の前に現れて冥助を授けます。
 まず、伏姫死去の翌年、大塚(後に犬塚)番作の妻・手束(たつか)の前に嬋娟(せんけん。艶やかで美しい)たる神女のごとき山媛(やまひめ)が白黒斑の大きな老犬に乗って姿を現し、手に握っていた玉を投げ与えて消えました。
 この奇瑞を受けて番作は姓を犬塚と改め、手束は間もなく懐妊、八犬士のひとりである犬塚信乃が誕生しました。

 まだ幼い犬江親兵衛(仁の霊玉を持つ犬士)がその母に横恋慕する悪党・舵九郎に攫われた時にも伏姫の神霊が手助けしています。
 親兵衛が危機に陥った時、一朶の叢雲がたなびき、凄まじい電光が発せられ、風が砂や石を巻き上げ草木をなびかせたかと思うと、雲が親兵衛を包んで空中へと連れ去っていきました。
 親兵衛を奪い返そうとした舵九郎も空へ引き上げられ、雲の中に潜む者によって股から鳩尾辺りまで引き裂かれて死亡しました。
 この場面では文中に伏姫の名と姿は出ていませんが、挿絵には雷雲の中で犬の背に立って親兵衛を抱き留める女の姿が描かれており、この出来事が伏姫神の力によるものであることが示されています。
 神隠しに遭った親兵衛は伏姫神の庇護を受けて富山で育ち、九歳にして逞しい体つきの青年の姿にまで成長します。

 里見家に敵意を抱き、これを陥れんとする館山城主・蟇田素藤配下の者が諏訪神社参詣中の里見義通(二代当主義成の嫡男)を誘拐した際、激しい闘いが繰り広げられて境内は血に染まり、多数の死者が出ました。
 神主らが対応に苦慮していると、安房の方から流れてきた黒雲が凄まじい暴風雨を起こしました。嵐が去った後には里見の士卒や館山の雑兵の死骸はみな風に巻き上げられて消え失せており、血潮も全て洗い流されていました。 
 領主へ事態を報せようと社を出た神主らはその道中、道脇の木々に人の首がいくつもかけられているのを目撃します。その道で出会った小さな子犬を抱いた十一、二歳の少女に尋ねてみたところ、これらは安房富山の神女がかけた館山の雑兵の首であると言います。
 少女はこのあと里見家に関する神の託宣を伝えると、走り去って忽然と姿を消しました。
 この話を聞いた義成は、たとえこれが姉(伏姫)の冥助であっても、それを頼みにするは大将たる者の本意にはあらずとして逆賊征伐のため改めて奮起しました。

 伏姫の霊を祀るため富山に登った里見義実は敵の襲撃を受けますが、そこに成長した親兵衛が現れて危機を救います。
 親兵衛が富山にて伏姫神に仙漿奇果を与えられて育ち、武術や学問の手ほどきを受けて今に至ることを語ると、その功績を知った義実は深く感じ入るのでした。

 その後、蟇田素藤に協力する妖術使いの尼僧・妙椿(正体は狸)が義成五女・浜路姫を襲った際にも伏姫神が出現します。
 やはり大きな犬の背に乗った神女が雲を伴って現れ、浜路姫を連れ去ろうとする妙椿の眼前に立ちはだかります。驚きうろたえた妙椿が懐刀で斬り払おうとすると、神女は右足で妙椿の胸を蹴りつけました。
 神罰覿面、妙椿は叫び声すら上げられずに倒れ伏し、この機に神女は浜路姫を犬の背に乗せて天へ去っていきました。
 浜路姫を助け出した伏姫は、己の素性を明かして優しい言葉をかけると、犬に宙を走らせて姫を城まで送り届けました。
 生還した浜路姫の証言で犬江親兵衛に密通の疑いをかけていた義成は己の誤解を恥じ、旅立った親兵衛を再び召し寄せようとします。
 また、伏姫に蹴られた妙椿はこれ以後次第にその通力を減じていき、最期は舞い戻った親兵衛に討たれました。

 次に伏姫神の冥助があるのは八犬士最後の戦いとなる対管領連合軍戦、犬塚信乃が「火猪の計」をもって管領軍の戦車を破るときです。
 下総国府台にて駢馬三連車に苦戦する信乃らは、源平合戦の「火牛の計」に着想を得て、松明を括りつけた猪を敵方に突撃させる火猪の計を考案します。このとき現れた六十五頭の猪こそ伏姫神の遣わした霊猪で、管領軍を相手に猛威を振るって里見軍を勝利へと導きました。

 この他、伏姫が授けた神薬は負傷者をたちどころに癒し、気絶した吹雪姫や射殺された上杉朝寧の蘇生にも用いられました。


▽註

・『南総里見八犬伝』…曲亭馬琴による読本。全9輯106冊、文化11年(1814)から天保13年(1842)にかけて刊行された。伏姫と犬の八房の因縁が元で齎された仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌  の仁義八行の玉をもつ八犬士らが安房里見家を再興する伝奇小説。

▽関連

八房



 
 神霊が出てきたらなんとかなるだろ!な安心感。あの優しかった伏姫さま、わるいやつ引き裂いたり、ハードな仕事もこなしてくれる凄いお方になって戻ってきました。