妙椿

■妙椿[みょうちん]

▽解説

 曲亭馬琴作『南総里見八犬伝』における悪役のひとりで、第百回より登場します。

 
 蟇田素藤(ひきたもとふじ)は元山賊ながら、悪政をふるう上総館山城主・小鞠谷如満に対抗して人々の支持を得ると、遂には城を奪い取って新城主の座に上り詰めました。
 彼は如満の愛妾だった朝顔と夕顔をも我がものとして寵愛しましたが、二人は流行病によって命を落としてしまいました。
 悲しみに暮れる素藤は、近頃世間で噂となっている「八百比丘尼」と呼ばれる尼を召し寄せました。
 「八百比丘尼」は若狭出身、山籠もりを終えて衆生済度のため諸国を遍歴している老尼で、外見は四十歳ほど、しかし実年齢は八百歳だといわれています。人呼んで「形貌(すがた)若狭の八百比丘尼」、真の法名は「妙椿」といいました。
 素藤は、この妙椿尼が持つと噂されている、人の病を癒し、あるいは死に別れた者の魂を煙の中に見せる不思議な力の虚実を試そうというのです。
 
 妙椿は素藤の意を察すると香炉を取り出して支度を整え、呪文を唱えつつ一つまみの香を燻らせました。
 煙の中に現れる一人の美女。しかしそれは朝貌でもなければ夕顔でもない、素藤の見も知らぬ、うら若き娘の姿でした。
 妙椿が素藤に見せたのは安房里見家二代当主・里見義成の五女・浜路姫の姿でした。素藤はその美貌の虜となり、里見家に姫との結婚を申し込むも、家柄や年齢差が不相応であるなどとして拒絶されてしまいます。
 素藤の求めに応じて離れ座敷に滞在していた妙椿は、怒る素藤からこの話を聞かされると、彼にある計略をもちかけました。
 それは今年十歳になる里見義成の嫡男・義通を神社参詣の折に捕えて人質にするというものでした。

 やがて計画は実行に移され、諏訪の神社で捕まった義通は館山城に幽閉されました。
 義成は三千余騎の兵を率いて館山城を包囲するも、息子の身が案じられて攻めきることができず、味方に多くの戦死者を出してしまいます。
 そんな苦境へ颯爽と現れたのは「八犬士の随一」を名乗る少年・犬江親兵衛(いぬえしんべえ)。伏姫の神霊の加護を受けて育った彼の活躍により若君は救い出され、素藤は捕縛されました。
 素藤は義成、親兵衛の慈悲により助命され、額に十文字の入墨を施されて隅田川の西へ追放されました。

 妙椿は妖術をもって素藤を入らずの山の草庵へいざないます。この頃には初めて素藤と会った頃よりさらに若返っており、剃っていた髪が少し伸び、富士額が際立つ三十路女の容姿となっていました。
 なぜ生け捕りにされたとき救ってくれなかったのかと詰る素藤に対し、妙椿は命が助かったのは自分が術で守護したためだと応じて、宿敵親兵衛を陥れるための次なる策を明かすのでした。
 以後、素藤はこの庵にて還俗した妙椿と二人きりで過ごし、享楽に身を任せるうち深い仲となりました。
 そして三月のある日、妙椿は素藤に留守を頼むと、計画を実行するため庵を離れて行方知れずとなりました。

 浜路姫が枕元に立つ女の怨霊(養家の継母・夏曳)に悩まされて病床に就いたため、義成は行者の言葉に従い、親兵衛を彼女の護衛役とし、また彼が持つ「仁」の霊玉を病室の床下に埋めさせました。
 しかしこの怨霊は妙椿の術によって出現した偽者で、妙椿はこの状況を利用し、さらに術を使って義成に浜路姫と親兵衛が密通していると誤解させます。

 濡れ衣を着せられた親兵衛は旅に出ることになり、庵に帰還した妙椿は素藤と共に残党を集めました。そして秘蔵の霊宝・甕襲(みかそ)の玉に祈りを奉げて強風を起こし、館山城の蔵を破壊して先の戦で剥ぎ取られた武具を悉く奪還すると、それらを兵たちに装備させて館山城へ一挙に攻撃を仕掛けました。素藤の軍勢は精々四百人程、しかしながら妙椿の幻術によって敵の目には数千人に見えていました。妙椿は今や素藤ら賊徒の群れの軍師となり、「天助尼公(てんじょにこう)」と崇められるまでになっていました。
 義成は荒川清澄を大将とする千五百騎を館山城に差し向けますが、彼らもまた甕襲の玉が起こす魔風に行く手を阻まれてしまいます。
 荒磯南弥六らが清澄の偽首を持参して素藤に不意討ちをかけた際には、妙椿が妖術で南弥六たちの動きを止めて反撃の好機を作り、負傷した素藤には神薬を与えてたちまち回復させました。
 
 次に妙椿は浜路姫のもとに赴くと、彼女を誘拐しようと叫ぶ暇さえ与えず猿轡を噛ませました。
 この危機に忽然と現れたのが、大きな犬の背に乗った神女、すなわち伏姫の神霊でした。
 妙椿は神女を恐れて切り払おうとするも、それより先に神女に胸を蹴られて倒れました。伏姫神に懲らされた妙椿の妖術は次第に力が衰えていき、救い出された浜路姫の証言によって親兵衛の疑いもようやく晴れました。
 
 さて、そのころ犬江親兵衛は霊玉を取り戻し、旅先で出会った老狐・政木狐から妙椿の来歴を教わっていました。
 狐によれば、妙椿の正体はかつて安房国長狭郡富山の麓の村で親のない子犬、つまり後に里見家に引き取られた「八房」を育てた狸なのだといいます。
 八房には里見家に深い怨みを抱き畜生道に堕とそうとする悪妾・玉梓の怨念が宿っていましたが、それも伏姫の一年に渡る読経の功徳により解脱していました。しかし犬を養育していた狸には玉梓の余怨が依然として残っており、しかも里見義実が犬にばかり目をかけ己をないがしろにした妬みも加わり、里見家への復讐を企むようになったのでした。狸は上総国夷灊郡布善村近くの諏訪神社に生える大楠のうろに居を移して三十余年、尼の姿に変化すると、蟇田素藤の愛妾死去に乗じて彼に取り入ったのでした。
 また、妙椿秘蔵の甕襲の玉は、かつて朝廷に献上された八尺瓊の勾玉を戦国の動乱のさなかに妙椿が手に入れたものでした。
 そして妙椿を倒すにはただ力に頼るだけではなく、まず邪術を破り、玉梓の怨念を解脱させることだと狐は説きます。
 政木狐が竜となって昇天するのを見届けると、親兵衛は新たに仲間となった河鯉孝嗣と共に安房へ向かいました。
 
 政木狐の教えに従って館山城に忍び込んだ親兵衛は、臥所で妙椿と枕を並べていた素藤を襲い、これを捕えることに成功します。
 もはや術も頼りにならず、ともかく逃げ出そうとする妙椿に向かって、親兵衛は霊玉の入った守り袋をかざしました。玉から発せられた光に打たれると、妙椿は苦しみの叫び声を上げ、その身からは黒い気が抜け出して西方へ靡いて消えました。
 高楼から飛び降りて逃げようとした妙椿は手水鉢の上に落ちて絶命していました。死後ようやく現れたその本性は、狐が語った通りの大きな雌狸でした。奇怪なことに、その背中の毛は焦げ縮れて、「如是畜生発菩提心」という八字が鮮明に浮かび上がっていました。これは霊玉の光を浴び、狸と玉梓の怨念が共に解脱した証であろうと考えられました。

 戦いを終えた親兵衛は後のことを荒川清澄に託すと、政木大全と改名した孝嗣らを伴って結城へと旅立っていきました。


▽註

・『南総里見八犬伝』…曲亭馬琴による読本。全9輯106冊、文化11年(1814)から天保13年(1842)にかけて刊行された。伏姫と犬の八房の因縁が元で齎された仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌  の仁義八行の玉をもつ八犬士らが安房里見家を再興する伝奇小説。


▽関連

玉梓
八房


 
 悪狐の花形が玉藻前ならば、こちらは狸界が誇る毒の花ではないでしょうか。伝説の八百比丘尼の名を借りて、自ら積極的に作戦立案して戦に関わっていく大胆さが見ていて気持ち良いとすら思えます。でも怨みの発端がどこか哀れだったり、結局は霊玉には敵わないところなんか切なさも感じますね。