水熊

■水熊[みずぐま]

▽解説

 『三州奇談』巻之二には「水嶋水獣」という題で次のような話が収められています。


 宝暦六年から八年の三年間(1756~1758)、加賀の手取川は氾濫をくり返し、宮竹新村、山田先出、三反田、一ツ屋村、土室、田子島、與九郎島、出会島、舟場島、水島の各所の堤が決壊、夥しい人家が流され、あるいは水に沈みました。川沿いでは村ごと居を移すことを余儀なくされた場所も多かったといいます。
 本吉は小高い土地であったため浸水は免れたものの、水の勢いが盛んな頃には周辺が水没してしまい、島のように孤立していました。
 手取川は元来増水しやすい川でしたが、水が滞る場所がないため速やかに海へと流れ、大規模な水害が発生することは稀でした。本吉世尊院の人が語るところによれば、この三年連続の不審な洪水には理由があるのだといいます。

 あるとき、中島の中川堤に何かが浮かび上がりました。
 それは一部分だけを水面に晒しているらしく、死んだ牛の背だとか、朽木、あるいは苔生した石ではないかと人々は言い合いました。水練の達者な者が近寄って撫で回してみたものの、流れの急な場所であるため長く留まることもできず、正体はつかめないままでした。手に触れたのは黒い皮のようなものばかり、頭もなければ目などがあるようにも思われません。ただ枝のようなものが二、三本突き出しているという得体の知れないものでした。
 やはり枯れ木の根のようにも見え、近くの山田村で見えなくなった牛もいないとのことで、少なくとも牛ではないだろうと考えられました。
 百姓たちが鍬で叩いたり竹で突いたりしてみても、ただばんばんと音がするだけで傷つかず、かといって木石のようにもみえず、してみると何やら生物の毛皮のようでしたが、やはり正体はわかりません。

 その後、人々は川の水が少ない日に例の黒皮のごときものを再び調べてみることにしました。
 各々鍬を打ち込んでみるもことごとく刃が立たず、とても生き物とは思えないという話になりました。
 皆が岸に腰を下ろして休息していると、川上から一個の椰子の実が流れてきました。
 実が例の黒いものの前まで流れてくると、それが不意に枝のような手を差し伸べました。そして椰子の実を抱え、目も口もない場所へ押し当てて中に詰まっている白い油を吸い尽くすと、また実を手放して水の流れに乗せました。
 様子を見ていた百姓たちは驚き、あれはやはり生き物だったのか、打ち殺してやろうと騒ぎだしました。
 鍬の刃も通用しないため、火をつけた藁や草を黒いもの目がけて投げつけました。次第にしゅうしゅうと皮の焼ける音がして、油の匂いが漂ってきました。ここぞとばかりに鍬を振り上げ強かに打ち込んだところ、遂に焼けただれた皮が裂けて黒い血が少し流れ出しました。
 が、その直後、たちまち大地が覆らんばかりの轟音がどうどうと響きわたり、水が引いていたはずの堤に一丈ほどの大波が押し寄せました。
 黒い獣は水がかかると同時にころころと転がりはじめ、洪水は幾重もの堤防を突き崩し、逃げ惑う百姓たちを追いかけるように方々へと溢れ出しました。
 黒い獣が転がっていった場所はたちまち淵と化して水難がやまず、このために周辺各地が悩まされたといいます。

 『三州奇談』では、この黒い獣は古より伝えられる「天呉」ではないかと語られています。
 天呉は目鼻もなく、よく川堤を破るといいます。
 ともかく人力の及ぶ相手ではなく、人々は家ごとに川に向かい、百日間にわたって毎朝観音経を読誦しました。その効験か、あるいは時が来ただけなのかは定かではありませんが、ある夜、闇の中に薄明かりが差して、黒いものが川上へ去っていく姿が目撃されました。
 その後は水も引いて、道路も次第に元通りになっていったということです。
 俗に「水熊が出た」といわれているのはこの出来事で、かの黒い獣は白山の谷の深淵に棲むものだったのだろうと考えられました。これが去って以来、この地に水害は起きていないということです。


 文中で触れられている「天呉」は中国古代より伝わるもので、水神の一種といわれています。
 しかし『山海経』などにみえる天呉は八つの人面に虎の体、十本の尾を有するものとされており、目鼻もないとする『三州奇談』の天呉像とは全く異なる姿をしています。


▽註

・『三州奇談』…堀麦水著。五巻。加賀、能登、越中の奇談を収める。宝暦、明和頃の成立とみられる。
・『山海経』…中国古代の地理書。最古の部分は紀元前3~5世紀に成立。各地の山川に産する奇怪な動植物や鬼神に関する記述が多数ある。



  
 おとなしい謎の生き物をいじめたらとんでもないことになってしまいました。ヤシの実すすってるだけだったのにね……。