毛朱

■毛朱[もうしゅ]

▽解説

 『平家物語』(長門本)や『源平盛衰記』にみえる獣の名で、平清盛がこれを捕えたとされています。

 清水寺千日参詣を行った若き日の平清盛は、満願の夜に自身の両目が抜け出て宙を巡って消えるという、吉凶とも凶兆ともとれる不思議な夢を見ます。
 それから果報を待って七日後の夜、天皇の住まう内裏の南殿(紫宸殿。朝賀や公事を行う内裏の正殿)に、鵺(ぬえ。トラツグミ)の声を発するものが飛来しました。
 左衛門尉の官位にあり、宿直にあたっていた清盛も朝敵ありとのことで南殿に駆けつけました。暗闇の中を自在に飛行し、その正体さえはっきりしないものをいかに捕えるべきかと困惑しますが、清盛は気を取り直して音がする方に向かって躍りかかりました。
 清盛に襲われて声の主は騒ぎ、彼の袖の中へ飛び込みました。捕えてみればそれはとても小さな鳥で、評定の衆を集めて話し合ったところ「毛朱」と呼ばれる獣であることがわかりました。毛朱とは年老いた鼠の唐名であるといいます。

 この事件について占わせるため呼び出された陰陽博士は、このような例は本朝、漢土ともに稀であるとしつつ、垂仁天皇(第十一代天皇)三年の二月二日にも毛朱が皇居に変をなしたことがあると語りました。警護の者たちはこれを取り逃がして門外で見失ってしまい、それゆえ天下は以後二十一年にわたって飢饉や兵乱といった大災難に見舞われたといいます。
 対して、今回毛朱を捕えることができたのは吉相であるとされ、その死骸は内裏の南面より伐り出した大きな竹の中に籠められ、清水寺の岡に埋められました。この後は天皇が病のとき、塚に勅使を遣わして祈祷を行ったといいます。「毛朱一竹の塚」と呼ばれているものがその塚であるといいます。

 『源平盛衰記』の記述もほぼ同様であり、怪獣の名は「毛じゆう」と記されています。
 毛朱は大陸由来の名称とされていますが詳細は不明です。
 江戸時代の高名な儒学者・朝川善庵も『善庵随筆』にて、この名が古今の書に見出せないとして、毛朱は「毛未(モミ)」の誤記であり、獣の正体はモミすなわち鼯鼠(ももんが、むささび)だったのではないかと自説を述べています。
 
 
 毛朱を埋葬した「毛朱一竹塚」は清水寺北西の産寧坂(三年坂)に大正の頃まで残されていましたが、現在は失われています。

 この塚にまつわる怪異談が『閑田次筆』にあります。これは著者が直接見聞きしたことであると記されています。
 寛政(1789~1801)のはじめ頃、清水寺外六坊の一部を修繕するために、前の道の土を掘り返したことがありました。この際、土中から石棺のようなものが掘り出されました。
 すると、これを掘り起こした者にはじまり、坊の者たち、修繕事業を計画した者たちまでがただちに「暴病」に罹り、片端から死亡していきました。
 大量死の確たる理由は判明しませんでしたが、ある人は「『源平盛衰記』には、いわゆる怪獣一竹(ここでは獣の名が「一竹」であるかのように記されています)を埋めた塚の記述がある。後世その在所がわからなくなってしまったが、それがまさにこの場所で、人々が病死したのは祟りによるものだ」との説を唱えたといいます。
 やがて石棺は元通り土をかぶせられ、その上には更に土を盛って塚を作り、小さな祠が設置されました。
 「一竹」ならば六百余年を経て再び邪祟をなすこともあるかと、この出来事は大変に恐れられました。
 

▽註

・『平家物語』(長門本)…平家の栄華と没落を語る軍記物語。鎌倉時代成立。多数の異本があるうち、長門本は長門国阿弥陀時に伝えられていたもので、全二十巻。
・『源平盛衰記』…『平家物語』異本のひとつ。全四十八巻。著者不明。複数の異本の集大成とみられ、挿話が豊富。
・『善庵随筆』…朝川善庵(鼎)の随筆。著者没後の嘉永3年(1850)に出版された。
・『閑田次筆』…伴蒿蹊の随筆。『閑田耕筆』の続編。文化元年(1804)刊。


▽関連





 鵺や「いつまで」と鳴く怪鳥と比べるとかなり認知度が下がりますが、同系統の怪獣のようです。
 まず名前からして謎めいていますし、後世に猛烈な祟りをなす禍々しさ、今や史跡が失われてしまって更にミステリアスに……それでいてめっちゃ小さいし逆襲にびっくりして清盛の袖に入っちゃうというキュートな?一面もあり、けっこう魅力的ではありませんか。