小町の髑髏

■小町の髑髏[こまち‐どくろ]

▽解説

 平安時代の歌人で絶世の美女と謳われた小野小町の生涯は詳らかでない点が多く、晩年についても日本中に伝承が残され、彼女を葬ったとされる塚などは各地にみられます。
 伝説の多くは年老いて零落した小町について語るものであり、既に世を去った小町が亡霊として登場するものもあります。
 小町の髑髏、穴目の薄などと呼ばれる話は古くから語られていたものらしく、平安後期の『江家次第』をはじめ『古事談』『無名抄』など多数の文献にみえるほか、能の『通小町』にも取り入れられています。

 在原業平が恋した二条后を連れ出すもその兄たちに取り戻され、自身は髻を切られて都落ちした時のことといいます。
 奥州八十島にて一夜の宿りをしていたところ、野原から「秋風の 吹くにつけても(「吹くたびごとに」とも) あなめあなめ(秋風が吹くたびに、ああ、目が痛い)」という歌の上の句だけを詠ずる声が聞こえてきました。
 声の主を探し求めた結果、人の姿はなく、ただ眼窩から薄(すすき。『江家次第』では野蕨)が伸び出た野晒しの髑髏が見つかっただけでした。どうやらこの薄が風になびく音が歌のように聞こえたらしく、怪しげなことと思った業平は辺りの人にこのことについて尋ねました。
 ある人は、かつて小野小町がこの国に下って終焉を迎えたというから、髑髏はきっと彼女のものであろうと語りました。
 その衰亡に哀れみを感じた業平は、かの上の句に対して「小野とはいはじ 薄生ひけり(小野とはいうまい、薄が生えているのだから)」と下の句をつけて変わり果てた小町を慰め、弔いとしたといいます。

 
 この話の原型と思しきものは日本最古の説話集『日本霊異記』に既に収録されており、こちらでは眼窩を筍に貫かれた髑髏が発する「目痛し」という声を聞いた男がこれを助け、恩返しを受ける展開となっています。
 
 小町の髑髏の話は妖怪を主題とした書籍等、とりわけ水木しげるの著作物においては「卒塔婆小町(そとばこまち)」の名で紹介されることが多々あります。
 しかし、通常「卒塔婆小町」といえば観阿弥作の謡曲(能楽)の作品名であり、こちらは髑髏の物語とは異なる筋立てで、小野小町も存命人物として登場するものです。
 何らかの誤解、混同により、本来は別作品を指す名称が妖怪の名になったようです。


▽註

・『江家次第』…平安時代後期、大江匡房による有職故実書(朝廷の儀式、礼法、行事等の解説書)。
・『古事談』…鎌倉時代初期成立の説話集。源顕兼が諸書から説話を集めて成ったもの。後続の説話集にも影響を及ぼしたとみられる。
・『無名抄』…鎌倉時代の歌論書。鴨長明作。
・『日本霊異記』…正式名『日本現報善悪霊異記』。景戒著。平安時代初期成立。全三巻。日本最古の仏教説話集。