庄屋の大蛇

■庄屋の大蛇[しょうや-おおくちな]

▽解説

 香川県小豆郡土庄町に伝わるものです。

 貞享(1684~1688)の頃に溜め池の蛙子池を築造した小豆島肥土山村の庄屋・太田伊左衛門典徳の家は備前と深い縁がありましたが、あるとき備前某家との間で揉め事が起こり、訴訟となりました。
 やがて備前の方が庄屋に向けて多数の蛇(くちな)を送り込んだという報せが入り、肥土山村の人々は竹槍を用意して村境で対決に備えました。すると、ごうごう、ざあざあと凄まじい音を立てながら、上庄の田を通って蛇の大群が攻め寄せてきました。が、村人の竹槍には敵わなかったとみえ、蛇はみな引き返していきました。
 帰った蛇の群れは自分たちを使った備前の家に対し、無理なことをさせたといって祟りをなしたといいます。

 この騒動の中、ただ一匹だけ、竹槍の間を潜り抜けて庄屋の家に辿りついた蛇がいました。
 しかし一匹だけでは何もできず、庄屋も蛇をそのまま飼ってやることにしました。
 時は流れて庄屋も何度か代替わりした頃には、大きく育った蛇は家の守り神となっていました。
 庄屋の家では蛇の背中にときどき油を塗ってやったといいます。

 ある時、蛇は近所に遊びに行き、「角の藤兵衛」という者の家の縁の下で眠っていました。
 これを見つけた角の藤兵衛は驚き、煮え湯をかけて蛇を死なせてしまいました。さらに藤兵衛は蛇の死骸を七荷片荷に切り分けて捨てたため、祟りを受けて子孫が途絶えたといいます。

 そこからまた何代か経た明治頃には、庄屋の財は減り、生活は苦しくなっていました。
 庄屋の叔父にあたる人物が明治維新の際の功績から下賜金を貰うことになりましたが、東京までの旅費さえなく、当時十一歳の娘「久さん」を売ってどうにか金を作りました。
 売られた久さんは流浪の末に印度へと渡った後も望郷の念を持ち続けていました。
 そんな久さんの夢の中にも蛇が現れて「帰って来い、帰って来い」と呼びかけました。
 このようなことがあって、久さんは三十歳の頃に再び肥土山に帰ってきました。身寄りも家屋敷も既に失っていましたが、再び故郷の土を踏めた久さんは大変喜んだといいます。




 このお話を語った人によれば、これは元々お姑さんが幼い頃に久さん自身から聞いた話だったとか。家はなくなっても庄屋の一族を見守り続ける蛇さん、沁みる……。