赤穴宗右衛門

■赤穴宗右衛門[あかなそうえもん]

▽解説

 上田秋成による怪異小説集『雨月物語』の第二話「菊花の約(ちぎり)」に登場する人物です。


 播磨国加古の里に丈部左門(はせべさもん)という学者が暮らしていました。
 彼は清貧を好み、書物を唯一の友として、雑多な日用品や調度に囲まれた生活を忌避して母親と二人で暮らしていました。この母もかの孟母のごとく志高い人物であり、糸紡ぎを仕事にして息子の信念を支え助けていました。
 また、同地の佐用家は丈部母子の志に感銘を受け、左門の妹を娶って親戚となり、何かと援助をしていましたが、母子は衣食のため人を煩わせるべきでないとして決して受け取らないでいました。

 ある日、左門は知人の家を訪ね、そこで高熱を発して臥せっている武士に出会います。
 彼は播磨より西の国の人らしく、連れの者に遅れたためにこの家に宿を乞うたものの、そこで急病となって数日間身動きもとれないでいるといい、家人も思わぬことに困り果てている様子でした。
 左門は両者を不憫に思い、病の伝染も恐れずに武士を介抱し、薬を用意して飲ませ、さらに粥を与えるなど、真心をもって看病にあたりました。
 武士は左門の情け深い行動に涙を流し、「もしこのまま死んでも恩返しをいたします」などと言って感謝の意を表しました。
 彼の名は赤穴宗右衛門といい、出雲国松江郷出身の軍学者でした。富田城主・塩冶掃部介(えんやかもんのすけ)も赤穴に学び、彼を佐々木氏綱への密使として近江へ派遣しました。
 しかし、彼が故郷を離れている間に前富田城主の尼子経久が逆襲をかけ、掃部介は討死、城も乗っ取られてしまいました。
 赤穴は佐々木氏綱に尼子打倒を進言しますが、氏綱はこれに消極的であるばかりか、赤穴を近江から出すまいと監禁する始末。出雲へ戻るため近江を脱出し、その道中で病に罹ったというのが真相でした。
 
 赤穴は左門の勧めでそのまま加古に逗留し、養生するうちにだんだんと回復していきました。
 左門はよき友に巡り合えたと喜び、いつも赤穴を訪ねては学問について語らいました。赤穴は用兵の論に詳しく、また左門の説もよく理解して議論できたために、ふたりはますます親交を深め、遂には義兄弟の契りを結ぶまでになりました。赤穴は五歳年上であったため、兄として左門の母に会いたいと申し出ました。
 左門が赤穴を連れて戻ると老母は喜んで彼を迎えました。実の父母と死別して久しい赤穴は母の慈愛と義弟の尊敬を受け、大きな喜びを感じていました。
 
 桜が散り、初夏を迎えた頃、赤穴は再び出雲を目指す決意を固めたことを丈部母子に打ち明けました。
 必ず戻ってきて恩返しをすると誓う赤穴に対し、左門は「ならば、兄上はいつお帰りになるのですか」と問います。
 赤穴が「月日はすぐに経つものだが、遅くともこの秋は過ぎぬつもりだ」と答えると、左門は「秋のいつの日と定めてお待ちすればよいのでしょう。どうか日を約束してください」と言います。
 「ならば、重陽の佳節(九月九日)を私が帰ってくる日としよう」
 赤穴はそう約束して出雲へと発ちました。

 月日は瞬く間に過ぎ、約束の九月九日がやってきました。
 左門は家の掃除をして、美しく咲いた小菊を瓶に挿して飾り、酒食の支度をして赤穴宗右衛門の帰還を待ちました。赤穴は真心ある武士、必ず今日帰ってくると左門は信じていましたが、昼を過ぎても往来に彼の姿を見出すことはできません。
 とうとう日が沈んでも赤穴は戻らぬままでした。

 「菊が麗しく咲くのは今日だけではない。帰ってくるという誠意さえあるなら、何もあの人を恨みに思うことはない。家に入って休み、明日を待ちなさい」
 母にそう諭され、左門はようやく戸を閉めて家に入ろうとしました。
 その時、おぼろな薄闇の中に人の姿が見えました。風に揺られるように近づいてくるその人は、やはり赤穴宗右衛門でした。
 左門は躍り上がる心地で赤穴を迎え入れようとしますが、赤穴は何を話しかけても黙って頷くばかりでした。客間に通し、労をねぎらい、酒と肴を並べても、赤穴は喜ぶどころか袖で顔を隠し、その臭いを嫌がるようなそぶりをみせます。
 「兄上をもてなすにはこれでもまだ足りぬものですが、私の気持ちです。どうかいやしんだりせず召し上がってください」
 赤穴はなお答えず、長い溜息を漏らしました。
 そしてようやく口を開き、こう言います。
 「賢弟の誠意ある饗応を忌む理由などあるだろうか。欺こうにも言葉が出ないので、ここで真実を話そう。どうか怪しむことなく聞いてほしい。私は既に現世の人ではない。汚き霊が仮に形を見せているだけなのだ」
 左門がひどく驚いていると、赤穴はこれまでの出来事を語りはじめました。

 赤穴が故郷に帰りついた時、既に出雲の人々の大半が尼子の権勢に靡いており、塩冶の恩を振り返る者はいなくなっていました。
 富田城にいる従弟の赤穴丹治を訪ねてみたところ、彼は現状における損得利害を説き、宗右衛門を尼子経久に引き合わせました。
 経久は勇猛ながら狐疑心が強く、ゆえに腹心と呼べるような家臣を欠いていました。赤穴は、己がここに長居しても益なしと考え、義弟との菊花の契りがあることを語って城を去ろうとしました。経久はこの態度を恨んだものとみえ、赤穴丹治に命じて宗右衛門を城内に軟禁してしまいました。
 そのまま月日は過ぎ、宗右衛門は城から出られぬまま九月九日を迎えました。
 「約束を違えたなら、弟は私をどう思うだろうか」といくら思い詰めても逃げ出す術はありません。そんな折、宗右衛門は「魂よく一日に千里をもゆく」という古人の言葉を思い出したといいます。
 そこで赤穴宗右衛門は自ら刃をもって命を絶つと、魂だけの身となって陰風に乗り、約束を果たすため左門のもとへ帰ってきたのでした。
 「こうなっては永遠の別れより他にない。ただ母上によく仕えなさい」
 そう言って立ち上がったかと思うと、宗右衛門の姿はかき消えて見えなくなりました。
 左門はどうにか引き止めようとするも、吹きつけてきた陰風に目がくらんで、遂に赤穴の行方を見失ってしまいました。
 左門は慟哭し、その声に目を覚ました老母も事情を知ると共に涙を流し、その夜は二人で泣き明かしました。

 翌日、左門は母の世話を佐用家に頼むと、宗右衛門の信義に答えるべく出雲を目指して旅立ち、十日を経て富田城下に到りました。
 そして真っ先に赤穴丹治の邸宅を尋ねると、彼との面会を申し込みました。
 丹治は宗右衛門自刃の事実をなぜか知っている左門を怪しみ、頻りに事情を問い質します。左門は『史記』にある魏の宰相の逸話を引きつつ、塩冶の旧恩を顧みない丹治らを詰り、命を投げ出してまで誓いを貫いた宗右衛門を讃えました。
 「私は今、信義を重んじてここまでやって来た。あなたは不義のため汚名を残すがいい」
 左門は言い終らないうちに抜刀し、丹治を斬殺してどこかへと去っていきました。

 この事件を知った尼子経久は、兄弟の信義の篤さに心を打たれ、敢えて丈部左門を追わなかったといいます。


 この「菊花の約」は、中国明代末期に馮夢竜が編纂した『古今小説』中の「范巨卿雞黍死生交」の翻案とされ、舞台を日本の戦国時代に移したものとなっています。
 
 
▽註

・『雨月物語』…読本。全9編からなる上田秋成の怪異小説集。明和5年(1768)序、安永5年(1776)刊。