佐倉宗吾

■佐倉宗吾[さくらそうご]

▽解説

 佐倉惣五郎は江戸時代前期の義民として知られる人物で、承応(1652~1655)頃の下総国佐倉藩の領民で、印旛郡公津村の名主であったとされています。本名の木内惣五郎や、宗吾あるいは惣吾の通称でも知られています。
 惣五郎は領主堀田氏が課す重税に苦しむ農民のために将軍家綱への直訴を行い、訴えは聞き入れられるも領主の逆鱗に触れ妻子と共に磔刑に処されたといいます。
 この後、亡霊となって堀田の屋敷に出没してかれらを脅かし、遂には藩主堀田正信を改易に追い込んだと伝えられています。
 史実としては詳らかでない点も多く、正信時代の佐倉領公津台方村名寄帳に惣五郎という富裕な農民の名が記されているものの、実際に直訴を行ったかは定かでないようです。

 彼の義民としての事績は文化(1804~1818)頃に写本で流布した実録本『地蔵堂通夜物語』や講釈などによって広く知られるようになったとみられています。
 『地蔵堂通夜物語』は大佐倉勝胤寺地蔵堂の庵主が惣五郎夫妻の亡霊らしき人物から直訴事件について聞くという導入で、やがて亡霊自身の口から顛末が語られるに至るというものです。
 その後に芝居や講談などでも盛んに取り上げられるようになり、芝居では嘉永四年(1851)の歌舞伎・三世瀬川如皐作『東山桜荘子』が特に知られています。
 初演時の『東山桜荘子』は時代を足利義正の頃すなわち東山時代とし、舞台を京、摂津に置き換え、主人公の名を浅倉当吾(あさくらとうご)、堀田家を織越家としています。後の時代には原案のひとつである講談と同様『佐倉義民伝』の題で定着し、役名も佐倉宗吾または木内宗吾が主流になりました。

 下総佐倉の名主である宗吾は、苛税免除を願い出て囚われた養父の身柄下げ渡しも聞き入れられず、農民の悲惨な姿をいよいよ見かねた末に、江戸へ出て領主堀田上野介への直訴を敢行します。しかし訴えはあえなく却下され、宗吾は次なる手として将軍への直訴を決意し一旦帰郷するのでした。
 ところが故郷では江戸へ出た者を全て召し取るとの触れが出されており、追い詰められた宗吾は妻子と再会した後、すぐさま江戸へと引き返しました。
 上野寛永寺通天橋にて将軍家綱への直訴を果たした宗吾でしたが、捕えられて身柄を堀田家へ引き渡されると、妻のおさんならびに三人の子ともども磔で死刑に処されました。
 この後、宗吾一家の亡霊はさまざまな形をとって堀田家に祟りをなし、堀田家を断絶へと導くのでした。
 初演の際には大詰で患いついた領主(織越大領)の寝所に当吾(宗吾)一家が磔柱を背負った凄まじい姿で出現するなど、工夫を凝らした仕掛けが観客を驚かせ、大評判をとったといいます。
 また後続の作では講談を典拠として、仏光寺の和尚で宗吾の伯父にあたる光然(迎然とも)という人物も登場します。彼は宗吾の子までが処刑されたと知って魔道に入るべく自ら命を絶って亡霊となり、領主への祟りに加わります。
 しかし祟りの演出は次第に顧みられなくなり、明治以降は子別れや光然の祈念の場面に関心が集まるようになったといいます。


 『東山桜荘子』の怪異を描いた絵画資料としては、歌川国芳作の錦絵数種が幽霊、妖怪関連の書籍においてよく掲載される傾向にあるようです。
 例を挙げると、宗吾の亡霊が部屋の各所から出現して領主を脅かし、集う腰元たちの面相も醜い異形に変化している大判三枚続の作や、藩主の「織越大領正知」と対になるかたちで描かれた、喉元を血に染め、胸や手の骨格が透けて見える「浅倉当吾亡霊」の図、そして細久手という宿場の名にかけて細く長い霊の手が織越大領の頬を撫で、亡霊の影や髑髏に見えるような梢の配置がなされた『木曾街道六十九次之内 細久手 堀越大領』などがあります。