赤王入道

■赤王入道[あこうにゅうどう]

▽解説

 静岡県三島市大場の赤王地帯を治めていたとされる伝説的人物で、系譜や事績は不明ながら、豊臣秀吉に仕えた蜂須賀小六の弟であるともいわれています。
 赤王入道についての詳細を記した文献資料などは未発見で、そのような人物が実在したかも定かではありません。赤王の主は長者、豪農とも僧兵の集団であるともいわれ、かれらが滅びたのも戦国時代とも江戸時代とも伝わっています。

 
 三島の赤王山一帯は昔から韮山道沿いの交通の要所で、この付近には赤王入道と呼ばれる豪族が住んでいました。入道は多くの土地を所有し、大勢の百姓を使役していました。
 ある年、さる殿様が参勤交代のため箱根越えをすることになり、赤王付近の百姓たちを人夫として用いようとしました。
 ところが、この際何を思ったか赤王入道が横槍を入れ、多額の賃金を出して人夫に徴用されるはずだった百姓たちを雇い入れてしまいました。
 怒った殿様は入道方への焼き討ちを強行し、赤王入道の土地と財産は全て焼き払われ、一族は全滅しました。

 時は流れ、天保(1831~1845)の頃。
 大場のある人が阿原の地で開墾作業を進めていたところ、土中より大きな素焼きの瓶を発掘しました。
 瓶の中には印用の朱が入っていました。不要なので洗い流そうと試みたところ、いくら洗っても後から後から朱が出てきて気味が悪かったといいます。
 ともかく、この人は洗った朱の瓶を持ち帰り、自宅の水瓶として使うことにしました。
 しかし丑三つ時になると柄杓がひとりでに瓶に入り、がらんがらんと音を立てて回るという怪事が続いたので、恐れをなした家人は瓶を三島大社に奉納しました。
 阿原はかつて赤王入道が焼き討ちに遭った因縁の地であるため、恨みを抱く赤王入道の一族がこのような祟りをなしたのであろうと人々は噂しました。
 
 明治の頃には瓶を掘り出した人の子孫の家から火が出て、思わぬ遠い場所まで飛び火するという事件がありました。
 不思議なことに飛び火した先も同じ一族の家で、この家の者は消火の際に二階から落ちて死んでしまいました。
 さらに、この焼け跡で作った南瓜はとてつもない大南瓜に育ったので、里の人々はいっそう恐れたといいます。

 昭和になってからも赤王部落には赤痢の流行などの不幸があり、ますます亡霊の祟りが恐れられたといいます。
 このような経緯もあって、土地の人々は赤王入道の墓を建て、毎年九月一日にその菩提を弔うようになりました。