鼻孔の虫

■鼻孔の虫[びこう‐むし]

▽解説

 中国南北朝時代に編まれた仏教類書『経律異相』に「出居士物故為婦鼻中虫経」を出典として収められている説話で、日本では『沙石集』などで引用されています。

 天竺にとある優婆塞(在家の仏教徒で、善事をなしてよく戒律を守る者)がおり、常に五戒を守り、善行を積んで日々を送っていました。
 しかし優婆塞は臨終に際し、看病する妻の姿を見て「私が死んだ後、この者はどうなるのだろうか」という妄念に囚われたために、死後に転生して妻の鼻の中に棲みつく虫となってしまいました。
 その後、ある聖者が彼の家を訪ねたときのことです。
 優婆塞の妻が鼻をかんだところ、鼻の穴から虫が出てきたので、これを踏み殺そうとしました。
 その様子を見ていた聖者は妻を制して、「これはあなたの亡夫です。殺してはいけない」と言いました。
 「私の夫は持戒修善の徒でした。それがどうしてこのような有様になるものでしょうか」と妻が問うと、聖者は「日頃の持戒の徳により本来なら天に生まれるべきところだったが、最期の妄心が強かったばかりに畜類に生まれたのです」と答えました。
 聖者は虫のために改めて法を説きました。すると、虫は聞法の功徳とこれまでに積んだ徳によってようやく天に生まれ変わることができました。
 世の人は大抵、善は弱く、欲は深いもので、悪縁は強く、善友は稀であれば、解脱の道は実に遠く、それゆえに懐かしい妻子を思えばこのような過ちを犯すこともあるのだといいます。


 「鼻孔の虫」の名は『沙石集』該当部分の訳を掲載した『大語園』の項に拠るもので、水木しげるも自著において同名でこの話を紹介しています。


▽註

・『沙石集』…鎌倉時代中期成立の仏教説話集。無住の編。
・『大語園』…昭和10年に刊行が開始された東洋の説話を蒐集、分類した大事典。全10巻。巌谷小波編。




 小学生のときに水木しげるの『世界の妖怪100話』で出会って、嫁さんを思って生まれ変わったのはいいけど寄生虫だし今までの徳は台なしだし、当の嫁さんには気づいてもらえず殺されかけるし切ないな~……と印象深かったので紹介してみました。改めて読んでもやっぱり、死に際の人間くささの方に好感をもってしまうのでした。