おきよさん

■おきよさん

▽解説

 兵庫県三原郡広田村に伝わる狸です。
 淡路島の広田村門内の藪に棲むという狸で、明治の頃には次々と人に祟ったといわれています。


 「おきよさん」という呼び名の由来は、門内に昔住んでいた「おきよ」という女だとされています。
 独り暮らしのおきよはある日の夕方、藪の辺りで見知らぬ小僧に声をかけられました。
 小僧は「私はこの藪の中に年久しく棲みなす狸の子でございますが、親狸が一昨日の晩に怪我をなし、左の脚の骨を挫いて困難いたします」と語って、おきよの家に古くから伝わる薬草を乞いました。また、もし譲ってくれたならば恩返しとして3年間おきよの手に妙法を授けるとも言います。
 そこで求めに応じて、おきよは干してあった薬草を煎じ、徳利に入れて門口に吊るしておきました。翌朝になると徳利は消え失せており、それから4、5日後の夜、おきよの家に誰かが訪ねてきました。
 訪問者は表戸を叩き、「先日の薬草のお礼に出ました。右の手を出してください」と言います。
 おきよが戸の隙間から手を出すと、その者は手首の辺りを握り「これにてよし」と言って立ち去りました。
 それ以来おきよにの手には、患部をさするだけで傷病者を癒す不思議な力が宿りました。噂はたちまち広まり、力が失せるまでの3年間でおきよはたいへん裕福になりました。
 このようなことがあってから、人々は藪の狸を「おきよさん」あるいは「おきよさん狸」と呼んで信仰するようになったといいます。


 そもそもおきよさんは門内の藪に生えていた大楠を棲み処とし、藪の主として眷属共々暮らす狸でした。
 しかし、この楠は何らかの理由で明治維新の折に切り倒されてしまいます。棲み処を失ったおきよさん狸は村人を恨んで祟るようになり、以後約40年をかけて病などで家々を没落させていきました。「付近の家は一戸も残らず滅ぼしくれん」と人の口を借りて述べたこともあるといい、村人はおきよさんの名さえ恐れるようになっていきました。

 明治39年4月、広田村森崎家の娘おとよが夕暮れ頃に藪の辺を通りかかりました。
 するとおとよの体は突然地上を離れ、上方へ浮いたかと思うと傍の畑にどうと投げ出されました。
 さては狸の仕業かと怯え、おとよは慌てて家に帰りました。この怪事の後、かねてより病に臥せっていた娘のよし江が死亡し、おとよ自身も翌日亡くなりました。
 これはおきよさんの仕業と噂されましたが、村内屈指の気丈者である伯母だけは「そんな理屈があるものか」と頑なに否定していました。しかし野辺送りの次の夜、家の裏から怪しい声が聞こえ、柿の木にはランプのように明るい光り物がぶら下がるに至って気丈な老婆も肝を潰し、家族と共に転居を決意するのでした。

 また、近所に住む中谷藤吉という豪胆な男は、狸を退治してやろうと藪へ赴き、どこからか小石を投げられるという怪異に遭遇しました。
 また別の日には客をもてなすための酒肴が忽然と消えてしまったため、これは大変とこちらも転居し、門内の一角には2軒の空き家が残されました。

 他にも祟りで病に臥せる者や、水車小屋に突如現れた大入道に放り投げられ気を失った者などが出て、村では狸のために祠を建立する計画が持ち上がったといいます。

 これらの話を聞き知った『神戸新聞』の記者が、怪異の真相を確かめるべく実地探検に赴いたこともありました。
 鶏卵と魚を詰めた笹折を大楠があったという地点に置いて出発し、方々を歩き回ってみても、記者は怪異らしい怪異には遭遇できませんでした。
 ただ、最後の期待を抱いて元の地点に戻ってみると、置いたはずの笹折はなくなっていました。
 結局、不思議といえばこの笹折紛失の一件だけでしたが、これも狸が持って行ったのかは定かではありません。
 しかしながら村民は盛んに狸の噂をし、また頻りに恐れてもいました。
 村人のうち某惣太郎という荒神を祀る老人だけは、他の村人が間違っていると主張していたといいます。老人によればこれは荒神の祟りなのだといい、狸のために祠を建てるなどという見当違いのことをすれば、荒神は更に怒ってまだ病人などが出るに違いないとのことでした。

 記者が去り、祠が建った後にも狸の怪異は続いたといいます。
 明治39年10月18日のことです。祠の付近にある山添家の8歳になる長男・政之助が小学校へ登校中、大師堂近くの楓の木の下で見知らぬ小僧に出会いました。
 小僧はおきよさんの祠へ遊びに行かないかと誘い、ついてきた政之助を藪の中で連れ回した挙句に突き倒しました。
 政之助は逃げ出して学校へ向かいましたが、腹痛を催してまた自宅に帰りました。
 母に問い質された政之助は事情を話し、なおかつ小僧は全身毛だらけで髭が生えていたとも語りました。その後も政之助は頻りに腹が痛いと訴え、40度以上の熱まで出して苦しみました。が、翌日にはケロリと治ったといいます。

 26日には伯母の山添はなも腹痛と発熱に襲われ、翌日には洲本町の親族・川上房太郎の家を不意に訪問したかと思うと、その玄関で倒れてしまいました。
 房太郎はかつて修験の法を学び、前年には紀州で人に憑いた狐狸を落とした経験もある人物で、はなの脈拍がまさしく狐狸憑きのそれであると看破しました。
 そこで房太郎は「不都合なやつだ、どこの何という狸なるか。即時に立ち退けばよし、さもなくば法力をもって責めあぐるぞ」と大声を出しました。
 目覚めたはなは房太郎に向かいこう言います。
「他の人ならば立ち退かざるも、貴方に対しては最早包みきれぬゆえ白状します。自分はおきよ狸ですが、今は白昼にて立ち退き難きゆえ夕方まで猶予しくだされ」
 そして「夕方には帰るゆえ煎餅を買うてくれ」とも言ったので、望み通りに与えたところ、すぐに十余枚をバリバリと平らげました。
 残りの煎餅をヒシと抱えている様子は、普段のはなの振る舞いからは考えられないものだったといいます。
 房太郎は以前の事例を挙げながら、「祠を建ててもらっておいて、なぜまだ人を害するのか」とおきよさん狸を問い詰めました。すると狸は観念し、事の子細を語り始めました。
 3人の若者を投げ飛ばしたのは棲み処を奪われた恨みからではなく、酒に酔って生意気な振る舞いをしていたのが癪に障ったためだといいます。そして女たちに乗り移って病にしたのも自分だが、死亡したのは寿命が尽きたからに過ぎないとも言いました。それなのに自分が取り殺したと噂され、新聞記事にもなって朝鮮辺りにまで知られるようになったことについて、おきよさん狸は「迷惑です」と嘆いています。
 他にも狸は空腹をしのぐため様々な人に憑いたことも白状しました。はなに憑いたのは、子供らには煎餅をやるのに自分にはくれなかったことが理由でした。
 6時を迎えた頃「もう帰れ」と迫ると、狸は「今しばらく世間が暗くなるまで待ってください」と居座り続けて飯を食い、7時頃にようやく「おおきにご馳走様でした、これから帰ります」と裏の縁側から飛び降りました。
 はなはそのまま気絶してしまい、十数分後に目を覚ましました。彼女は狸が乗り移っている間のことを何も覚えておらず、どうして川上家にいるのかも分からなかったといいます。

 房太郎は神戸新聞の取材に応じて、狐狸憑きの類を「知識の欠けたる者」などに起こることとして、憑物を落とすのは「催眠術の一種」に過ぎず、その技術策略の巧拙を集成したのが信仰や迷信になったのだろうという旨を述べています。


▽関連







 ここでは結構省略しましたが、元が新聞記事なので登場人物の名前や年齢がバンバン出てきて面白いです。
 記者の突撃ルポや房太郎のコメントからして、狸騒ぎは集団ヒステリーみたいなものだったのかな?という気がしますが……真相はともかく憑いた理由がお煎餅て!!
 なんといじらしいのでしょう。そりゃ子供らが煎餅たべてるの見たらタヌキだって気になるよなぁ。