疱瘡婆

■疱瘡婆[ほうそうばば]

▽解説

 只野真葛の『奥州波奈志』にある妖怪です。

 文化年間(1804~1817)初期、蝦夷松前に出兵があった頃のこと、陸奥国七ヶ浜大須で疱瘡(天然痘)が大流行し、多くの死者が出ました。
 この頃から、死者の墓を暴いて遺体を喰う何者かが出没するようになりました。
 村人たちは対策として遺体を深く埋めたり、大石を置いたりしましたが、夜の内に大石は取り除かれ、遺体も食われてしまいます。ほとんどの場合に遺体は骨も髪も食い尽くされ、ただ着物が残されるのみでした。
 雨後には化物の足跡が見つかったこともあり、その大きさは一尺余りもあったといいます。
 また、狩人が鹿を獲って皮を剥ぎ戸外に置いていたところ、化物が一夜にして骨まで食ってしまったこともありました。
 やがて、「疱瘡婆」という化け物が死人を食うために病を流行させているのだという噂が広まり、村人が役所に鉄砲撃ちの派遣を要請するという事態にまで発展しました。

 そうしている間に、村の肝煎の息子三人が一斉に疱瘡に罹り、一晩の内にみな死んでしまいました。
 父親は気が狂ったようになり、「死んでしまったのは仕方ないが、亡骸をむざむざ化生に食わせてなるものか」と三人の遺体を同じ場所に埋め、十七人がかりでやっと運ぶことのできる大石を上に置きました。そして石の両脇で松明を焚き、番人をつけ、熟練の猟師を雇って見張りにあたらせました。
 ところが数日経っても化物は現れず、猟師の提案によって今度は松明を消して待つことになりました。
 すると遂に暗闇の中に化物が現れたらしく、土を掘る音が聞こえてきました。二人の猟師はこれまでの化物の所業を思い出して恐怖を抱きながらも、接近して火縄銃を取り出しました。
 化物は猟師が近寄ってきたことに気付くと驚き跳ねて、飛ぶような勢いで柴の木立の方へ逃げ去っていきました。
 翌朝になって見てみると、一丈五尺を超える柴の木立が押し広げられて左右に分かれていたといいます。
 肝煎の息子達の遺体はなんとか守られ、怪物はこれ以降現れなくなりました。

 また、町に市の立った日に、買い物に来ていた五十歳ほどの女が山の方にいた何かを見て、恐怖の余り気絶してしまうということがありました。
 居合わせた人々の介抱で息を吹き返した女は、同行していた若い女に連れ帰られましたが、この時点では気絶の理由を知る者はいませんでした。
 それから三年を経て、女はようやく事情を語りました。
 曰く、あの日向かいの山に見えたのは身の丈一丈あまり、頭には白髪がふさふさとして顔色は赤く、婆のような容貌で眼をぎらぎらと光らせた獣だったといいます。
 これこそ疱瘡婆ではないかと思い、迂闊に話せば禍がふりかかると考えたために、女は三年もの間、詳しいことを語らずにいたのです。
 化物が逃げた際に生じた木立の分かれ目も見えなくなってきたので、やっと話す気になったのだといいます。


▽註

・『奥州波奈志』…只野真葛(1763~1825)による物語集。奥州で聞き集めた話の数々を収録。





 謎の怪物の目撃情報が克明に記されています。
 被害を防ぐのが精一杯で、人間にはとうとう退治できなかった恐ろしい婆です。疱瘡への恐怖がそのまま投映されているように感じます。
 病気関係の妖怪の中でも特に生々しく不気味なエピソードの持ち主ではないでしょうか。